もしも海が道であったなら、私はあなたのところへ少しでも近づくことができたでしょうか?
036:遠い遠い海の向こうで起こったことのようだと、ずっと思っていた
港湾部でもないのに空気がべたついた。潮風のようにざわりとした風が頬を撫でて建造物をわずかずつ傷めなぶって削り取っていく。地形の所為か雨も多く、空気は常に湿り気を帯びた。派手な繁華街の暗い裏通りは暗渠と化して闇の坩堝だ。何処の誰かという個人情報の価値がなくなり紙幣が飛び交い暴力と支配と抱擁とが同時に存在し得た。歩き慣れぬ新参者は必ず痛い目に遭い、あわぬ気質であったならば命さえ落としかねない。卜部はそんな場所が嫌いではない。だから暇があればうろつく。身分は明かさずその辺の量産品を纏って足音も立てずに他人の庭先をかすめ運河の縁を歩いた。卜部の階級は軍属という組織内ではそれなりだ。戦闘も適度にこなせるし味方の足を引っ張ることも少ない。だがそれはあくまでも保障された団体内の位置であって、市井に紛れた卜部の身分はイレヴンと呼称さえ奪われた最下層民だ。その団体でさえ支配者側から見ればただのテロリスト風情である。そのテロリストの域から脱却は叶わない。小競り合いがせいぜいで、軍属は政治的にも動くことに慎重にならざるを得ない部署だ。独断専行は一番不味い。空中分解の危機に瀕していてもその効果だけは失われなかった。
「探したぞ」
玲瓏と低く響く声に卜部はゆっくりと振り返る。シャツの釦も数えられるほどしか留めず、ベルトのバックルが卜部の動きに合わせて金属音を耳障りに鳴らした。路地裏に慣れたものはこのような格好に自然となった。路地裏での交渉は盛んでそこかしこで抱擁と口付けが行われている。誰かが通りかかっても気にもしない。それが当然のように袋小路は寝台へ変わり薄暗がりで抱くのは異性とは限らない。
「見つかったなァ初めてだな」
黒く丈の長い外套を羽織った藤堂は微動だにしない。善良な市民を委縮させる独特の空気は藤堂には通じないようだ。外套の裾から生えたように動く手が釦を留めろと身ぶりで伝える。卜部はあえて無視したまま片脚へ重心を預けて壁に寄り掛かった。建てられた当初は滑らかであったろう石壁はザラリと擦れた。
「私はお前に好きだと言った」
「言われましたねェ」
「愛してると言う意味の好きだと言うことも伝えたはずだ」
「ついでに体も連動してるってェ話もしたな」
「誠意を期待しては、いけなかったか」
卜部がけらけらと笑った。どこか遠くで鐘の鳴る音がした。真っ当なものたちはこのしるしを潮に切りあげていく。残るのは下種だけだ。
「俺のどこが真っ当に見えてんだ? 両親は真っ当だったかもしれねェがイレヴンになった時から俺はそう言うの全部捨てたんだよ」
ひらひらと卜部は手のひらを返して肩をすくめた。小馬鹿にしたような仕草に藤堂の眉が寄る。
「真っ当さたァとっくにサヨナラしてンだよ」
遠くを見るような卜部の顔に藤堂はますますしぶい顔をする。藤堂は道場を切り盛りもしているから相手を保護したりするきらいが過剰にある。ましてや愛情を感じる卜部に対してそれが働かぬ訳もなかった。
「ご両親は」
「しらねぇ。会ってねェし、死んでんなら葬式くらいはしたろうなァ。もっとも俺みたいのが顔を出したら別な騒ぎが起きるぜ」
藤堂も卜部も大国に呑まれた今ではただの反政府組織の一員でありテロリストでしかない。
「そう言う、もんだろ」
身に沁みるような卜部はぞっとするほど美しかった。藤堂は半ば伏せられたような卜部の茶水晶の煌めきや倦んだように笑む口元に目を奪われた。黒蒼の髪を短く刈りあげてうなじはすっきりと案外白い。
不意についた強い風が藤堂の外套と卜部のシャツをはためかせた。卜部は痩躯であるが経歴に違わない筋力を有している。あらわになる腹部や臍のあたりから藤堂は目が離せなかった。前髪をかきあげた卜部は藤堂の視線に気づいてシャツの前をバリッと開けた。釦が飛んできらりと消える。着衣の内側での卜部はけして脆弱などではない。必要な筋力は敏捷性や力強さも有している。ただ、骨格が細いのかあまり太らず肉はついていない。その胸部や腹部に真新しい裂傷があるのを見つけた藤堂の顔がしかめられた。
「サド野郎に捕まった。溢れてくる血が好きだとか言ってスパスパ切りやがる」
きょろ、と玉眼が煌めいた。その痕跡さえ見えるように感じた藤堂は背筋が凍る思いをした。
「あんたも、するかい」
ぽいと放られたものを藤堂は慌てて受け取る。折りたたみ式のナイフだ。藤堂の手がきつくそれを握りしめた。ぎり、と食いしばった歯が鳴った。藤堂はナイフを投げつけるように鋭く放りかえした。卜部は平気な顔をして受け取るとふゥンと鼻を鳴らした。
「知ってますか、この運河、海に続いてるんですよ」
卜部が不意に足の下を流れる流れを指した。藤堂は返事もなく目線を投げる。海から流れ込む流れであるらしく汚い印象は持たなかった。
「どこまで行けるンだろうってさかのぼったことがあって。今ぁもうそんなくだらねぇことしませんがね」
藤堂は頭の中で周辺地図を広げる。卜部は謳うように言葉を連ねた。
「港湾部が案外近いンすよここ」
「そうだな。海が近い。軍事施設も多いな」
「海ってなァ人を引き裂く障害かもしれねぇけど」
卜部の目が潤んだように揺らいだ。
「もし歩いて渡れたらこれ以上の橋はねェって思いませんか」
陸と陸の行き来を困難にする海部は確かに歩いて渡れればすべてが劇的に変わるだろう。
藤堂が油断した刹那、だった。卜部が海に飛び込んだ。ざん、と飛沫が飛んで藤堂の目に塩からい粒が満ちて痛みを発した。
「うらべ!」
藤堂は外套を脱ぐとすぐに目測地点へ飛び込む。海中で卜部は意識的に息を吐いた。ごぼ、と泡が昇っていくのと対照的に体が沈んでいく。いつか夢に見たように海水は温く腕や体に絡みつく。その温かみはどこか卜部を倦ませて物事の全てがどうでもいいような気になる。本当に日本は取り戻せるかとか。戦闘要員というもっとも始末の悪い卜部を周りがどう扱うかとか。この身が融けてしまえたら、と。感覚がとろけていく。目を閉じて最後の息を吐いた。苦しげに仰け反る背ともがき震える前兆のように痙攣する四肢。あぁ、と思った刹那、固くて熱い強い感触が卜部の手首を捕らえた。そのままぐいぐいと上へ引っ張り上げられて海面へ顔を出す。激しく咳き込みながら涙目になっている卜部に藤堂は一喝した。
「馬鹿者が!」
藤堂は身軽に岸へ上がると手を差し出す。
「掴まれ」
卜部は素直にそれに従う。反抗して身を翻しても同じことが繰り返されるだけだ。藤堂の助けを借りて卜部も岸へ上がった。シャツが貼りついて気持ちが悪い。咳はまだ止まず、いくらかは水を呑んでいる。
「げ、っは…!」
ごぼッと海水を吐いてから息を整える卜部に藤堂は座り込んだまま脱ぎ捨てた外套を手繰り寄せた。所持品を調べている。
しっとりと濡れた藤堂は色っぽい。卜部と同じように短く刈っているうなじが後れ毛もなく艶めいて、髪の先端から滴る滴を散らすさまがきらきらとした。はりついた服が藤堂の本来保持している肉体をあらわにする。藤堂がシャツを脱いだ。その時になって初めて卜部は藤堂が私服であることに気付いた。歴戦の証が刻まれ、不自然に盛り上がった肉が桜色に上気している。
「広場があったな、そこへ行くぞ」
藤堂は卜部の手首を掴んで引き立てるように立ちあがらせるとずんずんと歩いていく。
「なッ、はァあ?! あんた何を考えて」
濡れた衣服を脱いだ半裸の藤堂という男と脱がされかけのように乱れた卜部という男の二人連れはこっそりと路地裏の住人の目を惹いた。卜部は自身の顔容など十人並みであると自覚しているが藤堂は精悍で、実に頼りがいのある顔と雰囲気を持っている。甘ったるい少年から愛を告白されてもおかしくないのがこの路地裏での藤堂に対する評価だ。
藤堂はわずかに残る萌える芝生の上へ卜部を押し倒した。広場の中央では汚水なのか清水なのか判らない水が循環されて噴水を噴き上げてあたりをきらきらと照らしていた。べったりと皮膚のように張りついていた卜部のシャツを藤堂が脱がせる。抵抗さえもままならない。ズボンまで下ろされそうになってそれには抵抗した。藤堂もあっさりと退く。失くしたところでどうでもいい安ものである。芝生へ放り出して乾燥させるつもりだろう。
「何故飛び込んだ」
藤堂が覆いかぶさってくる。丈は卜部の方があるのに威圧感は段違いだ。藤堂に睥睨されて怯まぬものは少ない。鋭い眼光の双眸は淡い灰蒼で案外優しい色をしている。夜半ともあって大っぴらに、そこかしこで抱擁が交わされている。卜部と藤堂もその一員として紛れてしまった。口づけられるかと思うほど近づいた顔は逆光で黒く判別がつかない。
「きょう、しろ」
唇を吸われた。すぐにその口付けは食むような激しいものへ変わる。歯列ががちりとぶち当たり、怯んで開いたそこへ舌は潜り込んで卜部の舌を唾液ごときつく吸い上げた。
「ンむ、…ふ、…ぁは、…!」
何度も何度もついばむように口づけられ、食まれる。粗い息で茫洋とした思考をなんとか鮮明にしようとする卜部に藤堂が言った。
「もうあんなことはするな。海は道ではない」
「飛び込んだって歩けやしないんだ」
海は道ではない。
そんなことは、判っている。
「うるせェんなこたァ知ってンだよ!」
藤堂の手が卜部の頬骨を挟むように掴んだ。片手で足りてしまうほど藤堂のその拘束は強い。がん、と地面に頭部をぶつけられて目の奥で星が散った。飛び散った飛沫が涙なのか汗なのか唾液なのかさえも判らない。
「卜部、言葉を疑うことは容易い。だからせめて、私の言葉を信じてはくれないだろうか」
拘束していた手が離れて卜部の吐瀉に塗れた唇を拭う。頤を撫でるように汚れを拭っている。
「勇気を持てとは言わん。せめて信じると言うことを、私への報償として、行ってはくれないだろうか」
卜部は勇気という言葉が嫌いだ。困難に立ち向かう、その姿勢を否定する気はない。だがなンの前準備もなく突っ込むのは無謀であって勇気ではない。そもそも勇気と美化されること自体が卜部は嫌いだ。
「私のために私を信じてはくれないか?」
藤堂の顔が真剣だ。卜部は驚きを隠せない。藤堂ほどの位置であれば卜部との階級差は明白だ。
「身勝手だと判っている。だが、私は、お前を」
あいしている
はじめてもらった言葉だった。
卜部は喉を震わせて甲高く笑った。神経に障るようなそれに気付きながらそれで藤堂が撤回してくれたらいいのにとも思う。欲しくて欲しくてたまらなかった言葉だった。卜部自身を受け入れてくれるという意味を持っていることを藤堂が言外ににじませ、それが卜部の根底を揺さぶった。路地裏において睦言など戯言にすぎない。次に顔を合わせた時には襲われ殺されかけたなど良くある話だ。それなのに。
泣きだしたかった
「は、は……――…」
藤堂の口付けは食みながらも優しかった。
《了》